〓〓〓〓2004.2.25〜2003.10.10の『ぶつぶつ日記』〓〓〓〓

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◆2004.2.25(水) 『新発見の仏像』
 お寺を訪問していると時折、それまで認知されていなかった平安時代や鎌倉時代の古仏を発見する事があります。そのような仏像は大抵後世の修理で表面を塗り替えられており、一見すると、古い時代の像には見えない場合が多いです。
 ある像は『なで仏』になって、参拝者になでられていたものもありました。ある像は、お寺の吹きさらしの門の中に佇んでいました、ある像は、江戸時代制作とされ正当な評価を受けていませんでした。ある像は、後世の修復により極彩色に塗られ、ぱっちりした目の民芸品の人形の様になっていました。それらは、信仰の中でしっかりと生きづいてはいるのですが、我々修復家の目から見るとなんだか不当な評価を受けているようで可哀想でなりません。
 そのような仏像の再評価を助けるのも我々修復家の仕事でもあります。

◆2004.2.23(月) 『神像と狛犬』(4月4日まで)
 
東京国立博物館に常設展示の小特集『神像と狛犬』展に行って来ました。狛犬は二組、神像も何体かという本当に小さい特集でしたが、なかなか興味深い像も展示されておりました。まず大将軍八神社(京都市)の神像が2体来ていました。平安時代(11世紀)の神像で、この神社にはこのような神像が80体も伝えられています。一昨年のニュースで新しくもう一体発見されたという恐ろしい神社です。男神像は仏像と異なり、かたちの無駄な部分を削ぎ落とし、膝前材を設けなかったり、腕、袖、手先を簡略化したりして、仏像とはまた違う迫力があります。武神像も一木造りの古典的な構造を持ち、木材の塊量的な迫力を持っています。この神社の一群の神像は、その全てが、仏像の制作技法の影響を受けつつも、独特の雰囲気、迫力を醸し出しており、一見の価値ありです。(神社の宝物館を直に拝観させて頂くには要予約です。)
 特別展がどんなに混んでいても常設展示はたいがい閑散としています。しかし実は、仏像を落ち着いてじっくりと拝観出来るのは、常設展示の方かもしれません。みなさんも是非常設展示にも足を運んで下さい。大人480円で十分に楽しめます。

◆2004.2.19(木) 名も無き仏師
 
定朝(京都宇治平等院の阿弥陀如来像1053年)以前の仏師はなかなか記録に表れてきません。それは、それまで像に署名を残すという習慣があまりなく、仏師という存在を記録した文書が、貴族の日記の中に散見する程度にしか、残っていないという事が理由に上げられます。しかし、その存在を特定する事ができませんが、仏像自体は伝えられており、沢山の仏師がいたのは分かります。慶派の仏師が有名なのは記録や署名を沢山残したり、弟子が連綿と続いたという側面があります。名前の伝わっていないほとんどの仏師こそ日本の仏像史をかたち作ったと言えます。

◆2004.2.18(水) 金箔とは
 
前回の話に関連して、金箔というものは金の地金をそうとう叩いて延ばしているので(厚さ0.1〜0.2ミクロン)、金の量としてはほとんど無いに等しい。十円玉大の金を畳一枚にまで延ばす。金箔一枚(109・角もしくは127・角)を手の中で揉み擦ると消えて無くなってしまう程である。顕微鏡で見ると、網の目状になっていて、穴だらけである。
 方や金泥は、金の粉なので結構金の量を使う。そしてかなり値が張る。同じ面積を金色にするのであれば、金箔の方が金の量も少なく済み、安く上がる。
 金箔は100%の金では柔らかくなり過ぎるので、銀と銅を微量に混ぜている。この合金率(99%〜75%)が6種類あって、価格と色と性質が異なる。
 時折お身体が緑色になってしまった仏像を見かける事がありますが、これは銅の含有率が多い金箔や金泥を用いた為に銅の錆(緑青)をふいてしまったものです。

◆2004.2.8(日) 尾形光琳の屏風の新事実
 
東京文化財研究所の調査によると、MOA美術館が所蔵する国宝『紅白梅図屏風』の、今まで金箔で描かれていると思われていた部分には、実際、金泥もしくは有機染料を用いて描かれている事が判明した。あたかも金箔を貼ったようにマス目状に描いており、金箔を貼ったように意図的に見せている。
 桃山時代以降に金箔を貼った上に絵を描く襖絵や屏風が流行するが、どれもきちんと金箔を用いていたように思う。光琳は材料を倹約したのかそれとも何かの意図があったのか、意図があったとすれば一つの仮説として、金箔の上に描かれた絵は剥落しやすいと考えたのではという事が挙げられる。前に宮城県瑞厳寺の襖絵を目近に見学した事があるが、金箔の上に描かれた彩色は剥落しやすいという印象を受けた。金箔がいくら薄く叩き延ばして編み目状になっているとはいえ、金属の上では絵の具の定着が悪くなるのは必至であろう。
 レンブラントの油絵では、やはり金色の部分を描く時には金色の絵の具というのを使わない。やはり、黄色や白などの絵の具を用いて金色に見えるように、金属に見えるように描いている。
 違う色を用いて金色に見せる。どちらも高い技術を感じさせる。
このニュースは http://www.asahi.com/culture/update/0130/001.html で詳しく見れます。

◆2004.1.30(金) 仏像の修復家はどのくらいいるのか
 先日、お寺の方に「仏像修復をしている工房は全国にどれくらいあるのか」という質問を受けました。その時、はたと返答に困ってしまいました。自分がこの業界で働いているにもかかわらず、どの位の工房が仏像の修復に携わっているのか実際知らないのです。文化財としての仏像修復を行っていて文化財保存修復学会にも名前を連ねていて、私の知る工房は、20工房くらいでしょうか、しかし、それ以外にも仏壇仏具屋さんの元で修理をしておられる方、彫刻家や仏師の方で修理もやっておられる方がいらっしゃると思います。全体像はなかなか見えて来ません。みなそれぞれ独自にやっているので業界として成立していないという話しもあります。

◆2004.1.26(月) 平等院阿弥陀仏像の修復始まる
 十円玉でお馴染みの平等院鳳凰堂内に安置されている、国宝、定朝作、阿弥陀如来坐像とその天蓋がこの程、修復を行う事になり、魂抜きの儀式を行った事が新聞に載っていた。阿弥陀像は50年ぶり、天蓋は100年ぶりの修復になるそうだ。阿弥陀像は解体は行わずに表面の補修のみを行い、天蓋は解体修復を行うと思われ、仏像の修復の周期は、小修復で50年に一回、解体修復で100年に一回行う事になるのかなと実感した。私の修復した仏像は何年後に再修復されるのであろうか、自分自身では出来るだけ長い期間再修復の必要のないよう修復を行っているつもりであるのだが。その結果を生きているうちに確認出来ないのは残念である。

◆2004.1.25(日) 東博『南禅寺展』
 
『亀山法皇700年御忌記念 南禅寺 1月20日〜 2月29日』に早速行って来ました。仏像自体は沢山は来ていませんでしたが、禅美術が所狭しと並んでいました。
私のお勧めは、瑠璃燈です。ガラスのビーズで作った灯籠なのですが、明時代の中国からの招来品で、亀山法皇像の上に天蓋の様に架けられていたそうです。それに灯をともしたら、さぞ綺麗だったろうと思います。骨組みにもビーズを巻きつけて、全部でどの位のビーズを使っているのか分かりません。400年前のビーズ作品です。このような仏具は見た事がありません。大変珍しいものです。
 この作品を見る前に、平成館入り口右手のビデオ上映を見ると一層面白いと思います。この作品は平成15年度に修復が行われました。修復前には煤と、埃によって真っ黒になっていて、誰もその価値を知らなかったという事です。掃除の邪魔になるとかえって嫌われていたみたいです。修復前の真っ黒な姿を見ればそれも納得です。その修復工程を割と細かく映像化して流しています。こんなにきれいに修復出来るのだなと同業ながら感心してしまいました。展示場にも出来れば修復前の写真を置いておいても良かったのではと思われます。そのビデオを先に見ていたので感慨もひとしおでした。
平成館の展示場の半分は来週から『「日本の美 日本の心」帰国展』を開催するそうなのでどうせ行くなら両方観覧された方が良いのでは。合わせて本館の方でも『神像と狛犬』の小特集をしています。

◆2004.1.15(木) 定期的なメンテナンスは必要
 長い間仏像が伝世してきた期間の中で、一度も修理を受けていないものは非常に稀です。大抵の仏像は大なり小なり修復を受けつつ今日に至っています。100〜150年に一度は解体修理をその間に何度かの小修理をというのが一般的でしょうか。昔は近隣に仏像を直す職人がいて、何かあれば修理を頼んでいたでしょうが、近年では、そのようなかかりつけの修復仏師というものがいなくなってしまい、仏像の修復というものが忘れられていたようです。それは、明治以後のほんの2代か3代の間だったのですが、途切れてしまった伝統技法、習慣はなかなか元には戻りにくいのでしょう。したがって、寺院の方も、仏像を直すという事に慣れておらず、どうして良いか分からないというのが現状なのでしょうか。地域管理のお堂は特にそうです。仏像は壊れたままで、何十年も同じ場所に同じ状態で置かれています。まるで時間が止まったようです。それはそれですごい事ですが、木材と膠、漆、釘という脆弱な素材で出来ている仏像は定期的な修復が必要なのだということを知って頂きたいと思います。

◆2004.1.14(水) 『「法隆寺日記」を開く廃仏毀釈から100年』を読む。
 『「法隆寺日記」を開く廃仏毀釈から100年』 高田良信 NHKブックス 昭和61年を読んだ。明治維新の後の神仏分離令によって興福寺の僧が春日大社の神官に転職してしまい、廃寺同然となり、五重の塔が250円で売り出され、焼いて金属を取り出す寸前まで追い込まれていたという話しや、法隆寺でも寺禄が取り上げられ、檀家を持たない為に収入が全く無くなり、寺院として立ち行かなくなり、宝物を国に買い取ってもらって急場をしのいだという話からはじまって、どのように苦心して財政を立て直し、伽藍を復興していったかが綴られていた。ひと昔前までこの様な大寺でさえも、財政に苦しんでいたのである。東京文化財研究所の資料館にそのころの大寺の荒れている堂内の写真を閲覧する事が出来る。現在では想像も出来ないが、バラバラの仏像がお堂に所狭しと置かれ、無造作に床に寝かせられている像さえもある。それらは現在国宝・重要文化財となって宝物館に並べられているものである。
 現在、壊れた仏像をお持ちの寺院の方もどうか、悲観的にならないで頂きたい。法隆寺のようなお寺でもそのような苦しい時代を乗り越えて来たのであるから。

◆2003.11.9(日) 行田市郷土博物館『仏像と寺宝』展
 埼玉県の行田市郷土博物館に『仏像と寺宝』展(11月24日まで)に行って来た。今日は時代祭りをやっていたおかげで、運良く妻と二人分の入場料が無料になった。行田市の室町時代を中心にした仏像が展示されており、その歴史の深さが窺われた。私はこのような郷土博物館で行われる展覧会が好きだ。中央の博物館の展示は、日本の仏像の文化のうわずみを取り出しているのみで、実は、そこでは顧みられれない所にその大多数はあり、この圧倒的多数の仏像が破損し、修復を待っているのである。今回の展覧会も、そのような仏像を拝観する機会になった。この展覧会でも幾つか破損している仏像が展示されていた。破損仏はかえって構造技法が分りやすかったり、後世の拙い修理によって像容を害していたりと、中央の展覧会では出来ない勉強にもなる。このように地域の仏像の展覧会が盛んに行われ、仏像の調査が行われるのは好ましい事である。郷土博物館の情報をこまめに調べてホームページ上でお知らせしていく必要も感じた。

◆2003.11.3(月) 神田の古本祭り
 神田神保町の古本祭りに行って来た。今回は一冊も購入すること無く帰って来た。何年か前までは、掘り出し物の本が結構あって、楽しみにしていたのだが、古本祭り自体が、だんだん在庫処分の様相を呈してきた気がする。ここ数年で古本業界でネット化が進み、古本の価格が簡単に検索出来ることで、それぞれの店独自の価格付けというのがなくなり、掘り出し物というのが無くなりつつある気がする。

◆2003.10.30(水) 『漆芸-日本が捨てた宝物』を読む
 『漆芸-日本が捨てた宝物』更谷富造 光文社新書を読んだ。漆工品の修復家である著者が、修復について、漆工製作の世界について遠慮なく書いていて面白かった。私も実際に漆工品の修復の講座を受けた事があるが、その先生とはやり方に多少の違いもあり、参考になり、自分自身の仕事のヒントを幾つかもらう事が出来た。

◆2003.10.20(月) 『明治天皇を語る』を読む
 『明治天皇を語る』ドナルド・キーン 新潮新書を読んだ。明治天皇についての認識が変わった。学校では全く明治天皇がどのような人であったのかという事は、習って来なかったが、写真、刺身、花見、風呂、電燈嫌いで、酒、能、蓄音機、ダイヤモンド好きなどなど。明治天皇の人となりが窺い知れるエピソードが書かれていて面白かった。

◆2003.10.15(水) 『武士の家計簿-加賀藩御算用者の幕末維新』を読む
 『武士の家計簿-加賀藩御算用者の幕末維新』 磯田道史 新潮新書を読んだ。加賀藩の会計係の家の家計簿を例にとって、下級武士の生活の様子(主に生活費)について分かりやすく書かれていた。特に面白かったのは、家計の中に占める、冠婚葬祭費の比重が物凄く高い事で、どんなに生活に困ってもこれらの出費は減らす事が出来ずに、困っている有り様がよく分かった。

◆2003.10.12(日) 東京国立博物館、修理報告展
 東京国立博物館の今年度の修理報告展を見に行った。仏像の修理物件はは2件しかなく、どこの工房で修復したのかも分からない展示(前年度には表示していたのだが)になっていた。一件は浄瑠璃寺伝来の12神将像で、もう一件は静岡県の阿弥陀如来像。この像は以前に図録で見た事があったが、鎌倉初期の慶派仏師の作だった筈で、上げ底の構造といい、運慶に近い仏師作と考えていたのだが、展示には、そのような説明も無く誠に残念であった。修理で得られた知見をもっと展示して欲しいものである。

◆2003.10.10(日) 左甚五郎
 今日、美術史年表(美術出版社)をぱらぱらとめくっていたら。こんな記述を見つけた。「1651年(慶安4年)左甚五郎没(1594〜)」。左甚五郎って伝説上の人物で、実在しないと今の今まで思っていたので、非常に驚いた。しかも、生まれた年号まで分かっているとは。。。。


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