◆◆運慶について◆◆
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鎌倉時代の仏師運慶についてこのページで書いていこうと思います。まずは運慶関連の年表を作りました。

◆運慶関連年表◆

・*は現存の像
・『その他の慶派仏師の事績』には運慶が小仏師として関与した可能性のある康慶の事績を中心に載せた。
・運慶の生年が不明の為、その長男湛慶の年齢を付した。湛慶出生時の運慶の年齢を想像して足して頂くと、運慶が何歳でその仕事を行ったか想像出来る。

西暦 運慶の事績 長男湛慶の年齢 その他の慶派の仏師の事績 その他
1151     *奈良長岳寺阿弥陀三尊  
1152     康慶、吉祥天像を作る(堂本家蔵経巻奥書)  
12年間        
1164      蓮華王院(三十三間堂)が出来、千体千手観音の内の124体の当初像が作られる [その内の一体の足ホゾに運慶と書かれた墨書があるが、これは信憑性に疑問がある。]
9年間        
1173 長男湛慶生まれる 0    
1174   1 康慶、蓮華王院五重塔の仏像を作る(玉葉)  
1175   2    
1176 *円成寺大日如来像完成[着手から1年後に納入] 3    
1177   4 *康慶、静岡県瑞林寺地蔵菩薩像を作る。  
1178   5    
1179   6    
1180   7   東大寺、興福寺、平氏により焼き討ちされる。  
1181   8 康慶、興福寺南円堂、成朝、食堂の造仏に着手。(養和元年記)  
1182   9    
1183 運慶願経作成 10    
1184   11

*筑前講師、岐阜横蔵寺大日如来像作る

*定慶、春日大社舞楽面散を手作る

 
1185   12 成朝、鎌倉勝長寿院の仏像を作る(吾妻鏡)  東大寺大仏開眼・平氏滅亡
1186

*静岡県願成就院諸像を作る

正暦寺正願院弥勒菩薩像を作る(内山永久寺置文)

13    
1187   14    
1188   15    
1189 *浄楽寺諸像を作る 16

*康慶、興福寺南円堂不空羂索観音像、四天王、法相六祖像完成(玉葉)  

成朝興福寺西金堂本尊を作る[*現存仏頭か]

*快慶弥勒菩薩像[ボストン美術館、快慶の初出作品]を作る

 
1190   17    
1191   18    
1192   19   鎌倉幕府成立
1193 *栃木県足利市大日如来[海外流出か!]  20 康慶、蓮華王院不動三尊をつくる(歴代皇記)  
1194   21 快慶・定覚東大寺中門二天像を作る(供養記)  
1195 *栃木県光得寺大日如来[これ以後]?? 22 康慶、多武峰平等院に板絵六地蔵の願主となる(多武峰略記)  
1196

康慶・運慶・快慶・定覚、東大寺大仏殿脇侍像[9m],四天王像[12m]を作る[康慶最後の事績](妙本東大寺要録より)  

神護寺中門二天、夜叉像を作る(神護寺略記より)

23 *康慶、東大寺伎楽面を作る  
*定慶、興福寺維摩居士像を作る *宗慶、埼玉保寧寺阿弥陀三尊像を作る 
  
1197

*金剛峰寺八大童子を作る(高野春秋) 

*東寺講堂諸像を修理(東宝記)  

子息6人と東寺南大門金剛力士像を作る(東宝記)

24    
1198 文覚、明恵に運慶作釈迦如来像を与える(明恵上人伝記) 25    
1199

愛知県瀧山寺日光・月光、十二神将像を作る(瀧山寺縁起)

娘如意に近江国香庄を冷泉局から譲られる

26    
1200   27    
1201 *運慶・湛慶、愛知県瀧山寺聖観音、梵天、帝釈天を作る(瀧山寺縁起) 28    
1202 近衛基通の白檀普賢菩薩像を作る(猪隈関白記) 29 *定慶興福寺帝釈天・梵天像を作る
*興福寺西金堂薬王・薬上菩薩
 
1203

*運慶・快慶・定覚・湛慶、東大寺南大門仁王像を作る[69日で完成]

神護寺講堂諸像を作る(神護寺略記)

30    
1204   31    
1205   32    
1206   33    
1207   34 *興福寺東金堂十二神将像  
1208   35    
1209   36    
1210   37 *実慶 静岡県修禅寺大日如来像を作る  
1211   38    
1212 *興福寺北円堂諸像を作る(1208より)[現存最後の造像] 39    
1213 運慶・湛慶ら法勝寺九重塔諸像を作る 40    
1214   41    
1215    42 *三男康弁、興福寺竜灯鬼像を作る  
1216

称名寺光明院所蔵の大威徳明王坐像[新発見!]

源実朝持仏堂釈迦如来像を作る(吾妻鏡より)

43    
1217   44    
1218 鎌倉大倉薬師堂薬師如来像を作る(吾妻鏡より)   45   地蔵十輪院焼ける
1219 鎌倉勝長寿院五大尊像を作る(吾妻鏡より) 46    
1220   47    
1221   48    
1222   49    
1223 12月11日 運慶没(仏師系図・来迎院文書) 50   地蔵十輪院の運慶作の仏像を高山寺に移す

<参考文献> 『運慶・快慶とその弟子たち』 奈良国立博物館 1994
       『運慶 その人と芸術』 副島弘道 吉川弘文館 2000

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◆運慶関連まめ知識

ぶつぶつ日記の中から運慶に関する話を抜き出してみました。


『驚異的な東大寺南大門 仁王像の制作日数』
 奈良県、東大寺南大門の仁王像は、1180年の治承の兵火で平氏の焼き討ちにより、消失した伽藍の復興の際に建立されました。1203年に運慶と快慶が造ったと小学校の歴史の教科書にも載っている像です。この像は2体の像高8m40cm、6トンの巨像ですが、その制作日数が記録に残っていて、作り始めてから完成まで69日。これは、表面に漆を塗ったり彩色を施す日数を含んでいるという恐ろしい早さで造られています。そのような現場をちょっと想像出来ません。
 沢山の手だれが、いたことを想像させます。でないとこの日数ではとても無理です。そして、このプロジェクトを率いる運慶の統率力と慶派の結束力を感じます。

 その工程は、まず、像の寸法を縮尺したひな形を造ります。そのひな形に合わせて、部材を木取りしていきます。部材ごとに要らない部分を落としたところで一気に組み上げます。組み上がると像の大体の形は出来ており、細かい部分の彫出に入り、仕上げます、その後に表面の漆の仕事と彩色に移って行く訳です。
 どんなに急いでいても手は抜きません。吽形のへその位置や目玉の向きが気に入らなくて、大幅に変更した跡が残っています。こうして仁王像は完成しました。

 近年この仁王像は造られてから初めて修復され,その過程で沢山の事がわかってきました。従来まで運慶が吽形を、快慶が阿形をという分担で造立されたというのが定説になっていましたが、阿形像金剛杵の墨書には、運慶、快慶の名が。吽形像内の経巻には湛慶(運慶の子)、定覚の名が記されていました。これらの意味するところは現在でも諸説紛々としています。
 この修復での発見を綴った『仁王像大修理』という本が出ています。興味がおありの方はどうぞ一読を。

『運慶の評価』
 運慶は、古い時代からその名が語り継がれた有名な仏師であった。
しかし、どうもその作品による正当な評価ではなかったようである。
 明治時代の古社寺保存法に基づいた調査で、官報に『伝運慶作』と記載された17件の中には、実際運慶作のものは一件もなく、それまでの運慶の認識は間違ったものであった事が分かった。運慶は半ば伝説の中の仏師であった。 
 江戸期には、運慶を祖にした仏師系図に名を連ねる事は仏師のステータスとなっていた。そして、僧網位を得る為の手段に使われていた感があり、名前と伝説のみが先行していたようである。

 長らく運慶の作品論は、大正10年の修復に伴って台座に銘の発見された円成寺の大日如来、東大寺南大門の仁王、興福寺北円堂の弥勒仏・無著・世親で語られていた。

 昭和34年に、浄楽寺の諸像の銘文とひしゃく型の木札に運慶の名前が発見され、それに伴って、それまでニセモノと判断されていた、願成就の諸像の木札が当初のものと確証された。また、高野山の八大童子は高野山春秋記に運慶が作ったと記されているが、その確信が持てたのはX線撮影で体内に浄楽寺像と同じ月輪型の運慶特有の木札が発見されたことによる。(この3件発見のてん末は久野健著『仏像』に詳しい)

 その後も、何件かの運慶作品が発見され、現在ではやっと運慶という仏師の作品論が議論出来るようになったのである。

『運慶の作品論を考える場合に注意すべきこと』
 仏像の作者を考える場合、一人の彫刻家の作品として考えるのは現実とはそぐわない場合がある。仏像は他の芸術作品(仏像は純粋芸術ではなく、信仰の対象物として作られるものであるが。。。)とは異なり、工房制作の度合いが強い。
 運慶の作風を考える場合に、8mもあるあの東大寺の仁王像を引っ張り出すのはあまり現実的とは思えない。あの仁王像の縮尺したひな形原形は、運慶の手によるものかもしれないが、それを基に作った像本体は、たくさんの工人の手によるものである。大きな像なら余計に多くの仏師の手にかかるもので、運慶は全体を統括するプロデューサーのような存在といえる。
 興福寺北円堂の諸像(現在は3体のみ残る)も60歳を超えた運慶一人で彫り上げるという事は不可能で、多くの仏師の手を借りていよう。運慶はそれらのを束ねる棟梁であったのだ。

 もしかしたら、工房運営に追われて、なかなか自分で仕事に手を下す事が出来なかった可能性もある。東大寺南大門の仁王像を69日で作り上げる程の工房の力である。かなりの手だれと人数を抱えて、その人間にあてがう仕事を作り出さなくてはならない。円派や院派との受注合戦も行われたであろう。現代の会社組織とさほど変わりない状況がある。

 運慶作と運慶工房作というのを分けきれないが、運慶の手があまり入っていない運慶作というのもある気がしてならならず、運慶の作品論を考える場合には注意が必要である。

『運慶、快慶の彩色は丈夫』

 運慶の八大童子、快慶の作品群を見ていて、感心するのは、造像当初の彩色がよく残っている事である。保存環境の事を差し引いても、驚くべき耐久力である。この彩色の秘密は何にあるのだろう。よほど腕の良い彩色師を抱えていたのであろうか。
 彩色の耐久性はひとえに下地にかかっていると言ってもよい。この下地に用いられた膠自体が違うのか、それとも違うものを混ぜて使っていたのか。
 下地の材料の問題であろうか。鉛白か白土か胡粉か砥の粉そのどれを用いているのであろう。確かに白土で下地をしたものは、大きな固まりで落ちにくいという。こういう技術は時代を経るごとに退化している。一旦途切れると、その復元は困難だ。そのような事を論述している論文をまだ見た事がないのであるが、お心当たりの方はお教え頂きたい。

 膠は原料に何を用いたかによって、そのタンパク質のアミノ酸の組成が異なっている。微量の試料を液体クロマトグラフにより分析することで、アミノ酸組成を求め、標準試料と比較することで同定が可能。(至文堂 日本の美術400「美術を科学する」)だそうである。保存科学者の誰か、この謎を解いてはくれないだろうか。かなり興味深いお題であるのだが。。。

『運慶の上げ底内刳り』
 運慶の作品の坐像の場合には、像の内部を刳り取る『内刳り』という技法に特徴があります。浄楽寺の阿弥陀以降の作品は、像底をくりあげ、胴体部分を棚状に彫残し、胴体内部の空間を独立密閉出来るようにする手法を用いています。それまでは像底まで内刳りを抜いてしまい、がらんどうにしている像がほとんどでした。これ以降運慶の系列の仏師はこの手法をよく行っています。鎌倉前期のものは上げ底が深く、時代が下るに従って浅くなり、江戸時代になると、上げ底にしなくなり、像底を残すと言われています。
 この手法によって、像内が外気と遮断され、タイムカプセルの様に、経巻や銘札、墨書などの納入品を守っている事が多いです。運慶は、いろいろな事を考えるなと感心させられます。

 仏像の修復をしていると仏像の内部を拝見する機会があります。むしろ、内部や像底の方に作った仏師や、修理した仏師の個性が現れていて興味深いことが多いです。修復家の役得といえます。


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