木造金剛力士立像
16世紀 
総高296cm 像高285.5cm

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新潟県 柏崎市の寺院(真言宗)       


●震災直後の仁王像



●修復前



●修復作業



●解体写真



●除去した鉄釘・鉄鎹



●補修作業
          


●修復後
 


●集まった信者の人々

主な損傷の状態
[本体]
 
・2007年の中越沖地震による負荷により、後世に挿  げ替えられていた右足首部分、左足先の矧目が遊離し、 前方に倒れた。髻が辛うじて梁に引っ掛かり、転倒せ  ずに済んだが、自立は困難であった。
 ・両足首とも以前に腐朽が進み、一旦切除して後補の足  に挿げ替えられていた。  
 ・後補の漆塗りが剥離、剥落し像容を害していた。(昭  和の塗り替え)
 ・後補の布貼り漆塗りによって造像当初の造形が非常に  甘くなっていた。
 ・全ての鉄釘や鉄鎹が腐食し、切れているものもあり、  構造的に弱くなっていた。
 ・右手先の矧目が遊離して落下寸前だった。
 ・後補の部材により形状を改変されていた。(左肩の矧  ぎ材、両肩矧目周辺の小材貼り付けによる筋肉表現。  首回りの小材挿入による改変。など)
 ・足ホゾが設置されておらず、両足のみで自立しており、 安定に不安があった。
 ・後補布貼り漆層を除去すると、木質の腐朽箇所があっ  た(特に首周辺、両肩の矧目周辺)。
 

修復基本方針
 ・像の造像当初の彫刻形状を生かした、歴史を尊重した  修復を行った。塗り直しなどの安易な修理方法は一切  とらなかった。
 ・寛政元年〈1789〉に行われた表面漆塗りまで、像表面  の後補布貼り漆塗りを除去し、造像当初の彫刻形状に  近い状態に戻した。
 ・全ての部材を解体し、部材の腐朽箇所の強度を回復し、 根本的に修復を行った。
 ・後補の天衣・元結いは使用しなかった。
 ・後補の右前腕、右手第2・4指、左手先、独鈷杵、背  面材左肩後ろ小材、右足脛板材、両踵、両足先は使用  に耐えうるものとして使用した。
 ・形状を改変していた部材を除去した。(左肩の板材。  両肩周辺の筋肉表現を改変していた小材。首回りに挿  入されていた小材、裙先材と体幹部材の間の板材。腰  材。など)
 ・両足首材は干割れと釘穴による損傷が多かった為に新  補し、ダボやホゾによってより構造を強固に接合した  。また、像の安定の為に、足ホゾを補った。
 ・修復前の像のバランスの良さを踏襲する為に、片足ず  つ解体して作業を進めた。

主な施工内容
・像表面布貼りの状態確認
 
技術的に像表面の布貼り除去が可能であるか、細部を確 認し、現在の表面の2層下の寛政の修理時の表面に戻す こととした。  
布貼り漆層除去
 
布貼り漆層を刃物を使って丹念に除去した。
解体
 全ての部材を一旦解体した。
鉄釘除去
 鉄釘は、錆びて膨らみ材を割り、木材を炭化劣化させる ので、これを全て除去した。
後補箇所の除去
 
後世の修理による補修材を除去し、造像当初の彫刻形状 に近い状態をあらわにした。
腐朽部分の強化
 アクリル系樹脂を用いて腐朽した木質を強化した。(特 に首周り、両肩矧目、体幹部内刳り底面)
木質強化
 著しく強度が低下した構造に関わる部分(足首付近)に 合成樹脂を注入し強化した。
・釘穴補修
 釘穴を再利用するものは、木釘を挿入して補修した。
・解体写真
 部材を並べて解体した状況を写真に記録した。
赤外線観察
 部材一つ一つの墨書の有無を赤外線カメラを用いて確認 した。(胎内に文字などの資料は発見出来なかった。)
虫食孔補修
 虫食孔に漆木屎(漆+小麦粉+木粉)を用いて充填整形 し補修した。  
小欠失箇所補修

 小欠失箇所に漆木屎を用いて補修を行った。
・足首の構造強化
 現状の後補部材は割れが入り、強度に不安があったこと から、足首の部材を新補し、左足首内部には、ヒノキ材 製ダボを交わし構造を強化した。
足ホゾの新補
 像の安定の為に、足?を新補した。足裏にホゾとダボに よって強固に固定した。   
欠失箇所新補
 大きな欠失箇所は、ヒノキ材を彫出して、新しく補った 。
・組み立て
 接着剤、ステンレス釘・ステンレス鎹・木ネジを併用し て組み立てた。特に今回はステンレス鎹を特注で制作し た。
・修復銘札納入
 今回の修復の記録として、桧板に墨書して頂いた修復銘 札を像内に納入した。
・矧ぎ目処理
 部材同士の矧ぎ目(つなぎ目)に漆木屎を充填整形して、形状の連続を図った。
補彩
 補修部分に周囲と違和感のないよう、漆錆、漆、弁柄漆 などを用いて補彩を施し目立たなくした。

[台座]
・清掃
 表面の汚れを除去した。
・解体
 一旦全ての部材を解体した。
・組み立て
 ステンレス釘、接着剤を併用して組み立てた。
・ホゾ穴作成
 新補した足?に合わせて?穴を切った。
・ホゾ穴補強
 ホゾ穴の周りに、足?を受ける構造材を設けた。
補修
 矧ぎ目と欠失箇所を漆木屎で補修した。
拭き錆
 表面全体に漆錆を塗り拭きとった。
拭き漆
 表面に漆を塗り拭きとって拭き漆仕上げにした。

修復所見

●本像の制作年代の考察
 ・本像は裙先が右に片流れにする形状や、渦文の形状、  巻きひだが渦を巻いていない形状など古風な様式が認  められる。耳の形状もしっかりと彫刻され古風な雰囲  気もあるが、耳朶が分厚く、少し時代が下る要素もあ  る。
 ・構造技法的には大きなカツラの一材を根幹材として造  立し、矧ぎ面に台鉋を用いず、荒くチョウナで整えて  いる点や、根幹材と背面材の矧ぎ面も材木なりに整え  られているのみで、大きな平面を意識していないなど  、古風な感覚を持っている。
 ・像内部は内刳りをしっかりと行い像の重量を軽減して  いるが、両腕は内刳りがなく上半身に非常に重量があ  る。内刳りのノミ痕は内丸ノミが使用されている。

以上の形状と構造技法の特徴を総合的に判断して、寺伝による仁王門建立時の天正7年(1579)や観音堂建立の永禄2年(1559)に近い時期、室町時代後期、16世紀の制作と推定する。

●修理履歴について
修理は3回以上行われている
・最後の修理は昭和年間に膠下地漆塗りが行われており 、これが剥離して像容を害していた。下の漆塗りに膠 下地が結着しにくく、剥離が起こっていた。この時は 表面の塗り直しのみが行われた。
・その下層に全体を布貼り漆錆下地漆塗りを行われてお り、同時に薄い鉄鎹で補強が行われていた。この時、 解体はしていないと推定する。
・その下層に漆錆下地漆塗り。この表面は下の彫刻形状 をよく表し、漆錆下地で、除去は不可能であることか ら、今回はこの表面までを残して修復を行った。この 時両肩の矧目周辺の筋肉表現、首回りの改変をしてい る。両足首、両踵の新補を行っている。足裏や台座裏 に墨書の残る寛政元年(1789)の仕事。
・その下には、膠下地漆塗りの表面が残る部分があった が、これが造像当初の表面かは、断定出来なかった。
・足首の切断面には釘穴が切断された跡が残っており、 寛政元年の後補足首以前にも、後補の足首があった可 能性がある。

●その他
 ・以前に足元が腐朽による損傷を被り、かなり大掛かり  な修理が行われているが、その他の部分には当初の彫  刻形状をよく残していた。表面布貼り漆塗りを除去す  ることによって、造像当初の彫刻の雰囲気が蘇った。  改変されていた形状も元に復し、特に左腕の角度を元  に戻した。
 ・永禄2年(1559)に建立された観音堂と、仁王門、仁  王像と、この周辺は景観が室町時代よりあまり変わっ  ていない。非常に貴重な風景である。
 ・像内刳りに構造には関係ない内部に何かを留めたと推  定される和釘が2本残されていた。木札などが納入さ  れていた可能性もあるが、現在失われており非常に残  念であった。
 ・本像は足ホゾがなく長らく自立していた。非常にバラ  ンスのとれた像である。西洋美術の分野からは、仏像  彫刻は「立ってない」と人体解剖学的にバランスが悪  いということを指摘されることがあるが、本像は巨像  でありながら、きちんとしたバランスを保ち自立して  きた。そのバランスをそのまま継承するために、足を  片方ずつ外して修復を行った。この平面をとることが  一番苦労した点である。
 ・右手先材の掌下部に、太?穴が開いており、造像当初  は、掌を上に向けていた可能性もあった。しかし現状  、前腕が後補部材に変わっており想像の域を超えられ  ないこともあって、修復前の形状を踏襲した。
 ・体幹部材と左上腕部材の間には、後補の板材が2材矧  ぎ寄せられて、形状の連続を欠いていた。この材を使  用せずに、腕の取り付け角度を変えた結果、形状の連  続を図れた。
 ・中越沖地震によって大きく損傷を被ったが、これまで  表面的な修理は行われていたものの、寛政元年(1789  )より230年間解体修復は行われておらず、使用され  ていた鉄釘・鉄鎹が腐朽しており、解体修復を行う時  期にきていた。今回錆びて材を傷めている全ての鉄釘  ・鉄鎹を除去でき、後補の表面を除去して内部の木質  の腐朽箇所まで補修することができた事は今後の御像  の保存に非常に良かったと考える。
 ・鉄釘・鉄鎹は必ず腐食し、材を傷めるものであるため  今回は、腐食しにくいステンレスの鎹を特別に注文し  使用した。
 ・このような大きな大木を用い、造形的にも整った仁王  像は新潟県内においても作例が無く、非常に貴重であ  る。

●墨書

[左足裏]
 
寛政元乙酉五月吉日
 東山大泉寺住法印良円代
  柿崎
  世話人相沢権右衛門

[台座裏]
寛政元乙酉五月吉日
東山大泉寺住法印良円代
施主柿崎相沢権右衛門


柿崎の相沢家は柿崎から柏崎まで自分の土地だけを歩いて行けるほどの大庄屋であったと聞いた。



◆修復後記
・非常に大きな御像で、修復のしがいがありました。造形的にも構造技法的にも非常に古風でした。胎内に造像記録を期待していたのですが、残念でした。市の文化財になってもおかしくないです。

・永禄2年(1559)に建立された観音堂と、仁王門、仁王像と、この周辺は景観が室町時代よりあまり変わっていないということで、非常に貴重な風景が残されています。

開眼供養の時には、非常に沢山のかたが、参詣されました。

是非、一度お立ち寄り下さい。


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