〓〓〓〓2004.4.20〜2003.3.1の『ぶつぶつ日記』〓〓〓〓

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◇2004.4.20(火)『新発見の運慶の大日如来の感想』
 特別展の後に、平常展で展示されている『新発見の運慶の大日如来』も拝観してきました。体躯の厚みといい、顔の造作といい「これは運慶だ」と実感しました。新聞の写真とは少し雰囲気が違う気がしました。彫刻に関して写真はあまりあてにならない事を実感しました。やはり実物を見なければ。

 これと比べて光得寺像は見劣りするような気がしますが。これからの研究に期待大です。

◆2004.4.19(月)『観覧の仕方の違い』
 今回の特別展では、出口が平成館にはなく、本館を通らなくては外に出れない仕組みになっていました。本館の平常展にも人を呼び込もうとする試みなのでしょうが、出口を求めて沢山の人が、彫刻展示室を通り抜けて行きます。わさわさと「出口はどこ?」と口々に言いながら。常設展示は特別展の最中でもすいていて、ゆっくりと仏像を鑑賞出来る場所であったのに、なんだか落ち着きません。聖域を犯されたような心持ちです。

 でも、特別展を拝観した人達が、こんなにも平常展の仏像には関心がないのかと驚きました。みんなほとんど素通りです。この違いは何なのでしょう。

 今回の展覧会では、一般の人の観覧の仕方を観察してみました。一般の人は、字の書いた巻き物を見る時は、その字を読もうとしてか、流れが滞り、人だかりになります。そして、絵の前でも少し立ち止まります。それに反して、仏像の前では、そんなに立ち止まる事はありません。我々夫婦の行動パターンとは正反対です。そんな訳で、彫刻の前では我々夫婦が流れをせき止める状態になり、少し気を使います。
 絵画は、その鑑賞する位置が絵の正面に限定されてきますが、彫刻にはその限定がないということにも起因します。彫刻はどの角度からでも鑑賞出来、そのそれぞれの角度で違う側面を見せてくれるのです。実際、(残念な事に今回の展示では見る事が出来ないですが)運慶の八大童子は後ろから見ても良いです。かなり作り込まれています。

◆2004.4.18(日)
 
次に面白いと思ったのは、毘沙門天像です。この像は、269cmと大きな像で、平安末期の妙に味のある像ですが、近年行った修復の際に、像内部から胎内仏の毘沙門天が見つかっていました。この胎内仏も展示されていました。白檀の小像ですが、細部まで作り込まれた像で、その様式的な特徴も12世紀頃の天部像の特徴をよく表わしていました。また、長い間像内にあったので、傷みも無く驚く程、截金文様もきれいな状態、作られたばかりのようで、不思議な感覚を覚えました。

 あと一つこの像に関連して、この像の図録に納められている写真を見て、実物と随分印象が違うと感じました。それもそのはず、この像の写真を撮ったカメラを構えている位置は、我々の下から見上げる視線の位置よりもずっと、高い位置で、像を水平に見ているのです。なので、図録の写真を見ると、小さな像だと錯覚してしまいます。像の雰囲気を伝える写真を撮るには人が見る目線で撮るべきものだと改めて実感しました。

胎内仏発見について高野霊宝館のホームページに書かれています。http://www.koyasan.or.jp/reihokan/topic/topic01.htm

◆2004.4.17(土)『空海と高野山展のお勧め』
 『空海と高野山展』に行ってまいりました。私のお勧めは、なんと言っても運慶の八大童子です。その目がまるで意志を持っているかのよう。運慶の玉眼の使用技法の確かさが伺われます。以後の仏像彫刻には玉眼の使用が流行りますが、運慶のようには玉眼を使いこなした仏師はいません。人間をよく観察し、目の切り方を工夫しています。日本彫刻史の中でも屈指の作品ではないかと思います。専門外の人には、「仏像は立っていない」とか、「彫刻ではない」とおっしゃる方もいらっしゃるのですが、そういう人にはこの作品を見せてあげるべきです。躍動感や臨場感があり、動きだしそうな気がします。
 加えて、前にも書きましたが、彩色も造像当初のものがよく残っており、運慶の造形の技術もさることながら、技術の確かさも伺い知れます。しばらくこの拝観記が続きます。

◆2004.4.3(土) 『運慶、快慶の彩色は丈夫』
 特別展『空海と高野山』2004.4.6〜5.16 (東京国立博物館)がもうすぐ開会されるのに関連した話題を。

 運慶の八大童子、快慶の作品群を見ていて、感心するのは、造像当初の彩色がよく残っている事である。保存環境の事を差し引いても、驚くべき耐久力である。この彩色の秘密は何にあるのだろう。よほど腕の良い彩色師を抱えていたのであろうか。
 彩色の耐久性はひとえに下地にかかっていると言ってもよい。この下地に用いられた膠自体が違うのか、それとも違うものを混ぜて使っていたのか。
 下地の材料の問題であろうか。鉛白か白土か胡粉か砥の粉そのどれを用いているのであろう。確かに白土で下地をしたものは、大きな固まりで落ちにくいという。こういう技術は時代を経るごとに退化している。一旦途切れると、その復元は困難だ。そのような事を論述している論文をまだ見た事がないのであるが、お心当たりの方はお教え頂きたい。

 膠は原料に何を用いたかによって、そのタンパク質のアミノ酸の組成が異なっている。微量の試料を液体クロマトグラフにより分析することで、アミノ酸組成を求め、標準試料と比較することで同定が可能。(至文堂 日本の美術400「美術を科学する」)だそうである。保存科学者の誰か、この謎を解いてはくれないだろうか。かなり興味深いお題であるのだが。。。

 今回の展覧会では運慶の八大童子、快慶の作品が拝観出来ます。八大童子を全員同時に拝観出来る機会はなかなかないので、楽しみにしています。

◆2004.3.29(月) 『運慶の作品論を考える場合に注意すべきこと』
 仏像の作者を考える場合、一人の彫刻家の作品として考えるのは現実とはそぐわない場合がある。仏像は他の芸術作品(仏像は純粋芸術ではなく、信仰の対象物として作られるものであるが。。。)とは異なり、工房化の度合いが強い。
 運慶の作風を考える場合に、8mもあるあの東大寺の仁王像を引っ張り出すのはあまり現実的とは思えない。あの仁王像の縮尺したひな形原形は、運慶の手によるものかもしれないが、それを基に作った像本体は、たくさんの工人の手によるものである。大きな像なら余計に多くの仏師の手にかかるもので、運慶は全体を統括するプロデューサーのような存在といえる。
 興福寺北円堂の諸像(現在は3体のみ残る)も60歳を超えた運慶一人で彫り上げるという事は不可能で、多くの仏師の手を借りていよう。運慶はそれらのを束ねる棟梁であったのだ。

 もしかしたら、工房運営に追われて、なかなか自分で仕事に手を下す事が出来なかった可能性もある。東大寺南大門の仁王像を69日で作り上げる程の工房の力である。かなりの手だれと人数を抱えて、その人間にあてがう仕事を作り出さなくてはならない。円派や院派との受注合戦も行われたであろう。現代の会社組織とさほど変わりない状況がある。

 運慶作と運慶工房作というのを分けきれないが、運慶の手があまり入っていない運慶作というのもある気がしてならならず、運慶の作品論を考える場合には注意が必要である。

◆2004.3.26(木) 『虫穴』
 
ここのところ、虫食いのひどい仏像の修復作業を行っている。虫穴の一つ一つに合成樹脂を注入し強化した後に漆木屎を充填・整形して彫刻面を補っていくのである。この虫穴を埋める時には決して穴の周りに、はみ出さないようにしなければならない。なかなか根気のいる作業で、すぐに飽きてしまう人も多い。

 しかし、この処置の効果はてきめんで、穴を埋めていく事で、彫刻の形の力がよみがえって来て、お顔もふっくらとしてくる。虫喰という損傷は、形を読むという技術もさほど必要なく、機械的に処置をしていく事で治る損傷です。どんなにひどい虫食いでも彫刻表面がある程度残っていれば治ります。

◆2004.3.17(水) 『運慶の評価』
 運慶は、古い時代からその名が語り継がれた有名な仏師であった。
しかし、どうもその作品による正当な評価ではなかったようである。
 明治時代の古社寺保存法に基づいた調査で、官報に『伝運慶作』と記載された17件の中には、実際運慶作のものは一件もなく、それまでの運慶の認識は間違ったものであった事が分かった。運慶は半ば伝説の中の仏師であった。 
 江戸期には、運慶を祖にした仏師系図に名を連ねる事は仏師のステータスとなっていた。そして、僧網位を得る為の手段に使われていた感があり、名前と伝説のみが先行していたようである。

 長らく運慶の作品論は、大正10年の修復に伴って台座に銘の発見された円成寺の大日如来、東大寺の仁王、興福寺北円堂の弥勒仏・無著・世親で語られていた。

 昭和34年に、浄楽寺の諸像の銘文とひしゃく型の木札に運慶の名前が発見され、それに伴って、それまでニセモノと判断されていた、願成就の諸像の木札が当初のものと確証された。また、高野山の八大童子は高野山春秋記に運慶が作ったと記されているが、その確信が持てたのはX線撮影で体内に浄楽寺像と同じ月輪型の運慶特有の木札が発見されたことによる。(この3件発見のてん末は久野健著『仏像』に詳しい)

 その後も、何件かの運慶作品が発見され、現在ではやっと運慶という仏師の作品論が議論出来るようになったのである。そして今回の発見である。出来る事なら、解体修理に伴って像内の納入品を取り出して運慶作の文字を確認したいものである。
 実際私は光得寺像がほんとうに運慶作品であるのか少し疑いを持っていた。

◆2004.3.15(月) 更新情報『運慶について』
 
『保存修復まめ知識』→『運慶について』で見れます。 

 一昨日の運慶の大日如来新発見を受けて、ページ『運慶について』を作ろうと思います。まずは、運慶関連年表を作りました。運慶の事績とその流れが分かると思います。運慶の生年は不明なので長男湛慶の年齢を付しました、これで運慶が何歳でその作品を作ったか想像してみて下さい。

◆2004.3.14(日) 『運慶の大日如来像 新発見』
 昨日、13日の読売新聞の1面を見て驚きました。なんと、運慶の大日如来像が新しく発見されたのです。記事は読売新聞のHP(http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20040313it01.htm)で見れます。

 栃木県足利市の光得寺の大日如来に似ているとして、同市内の所蔵者が東京国立博物館の山本勉氏に調査を依頼したそうで、X線写真によると、くっきりと運慶特有の五輪塔形の木札などの納入品が確認されました。運慶は、このような木札を、静岡県願成就院の諸像、興福寺北円堂弥勒仏、光得寺像(未解体)に納入しており、運慶特有の納入品とされています。神奈川の浄楽寺の諸像、高野山の八大童子(未解体)には、月輪型の木札を納入しています。像を解体することなしに、その作者が判定出来る唯一の仏師です。

 今回の像は、像高66.1cmという小像ですが、文献などから1193年に作られたと推定され、運慶作品の空白期を埋めるものとしても価値があります。運慶は有名な仏師ですがまだまだ分かっていない事がたくさんあります。今回のように運慶の作品はまだまだ発見されていくと思います。
 
 この像は、光得寺の大日如来と共に、東京国立博物館の常設展示室に4月6日から6月30日に展示されます。また、調査の成果は、同館の研究誌『MUSEUM』来月号で発表されるそうです。像に関する感想は拝観してから書きます。

◆2004.3.12(金) 『大仏の鍍金』
 奈良の大仏を金色にする際には、『鍍金(ときん)=アマルガムめっき』という技法を用いました。この技法は、水銀に金を溶かしたものを、像表面に塗り、加熱して水銀を飛ばし、金を定着させるという技法です。いうのは簡単なのですが、実際大仏は物凄い大きさですし、水銀は毒性が強く、その蒸気で、目が見えなくなったりと尋常でない職場環境となっていたはずです。恐ろしい。。。大仏本体の鋳造に3年かかったところをその鍍金に5年かかっています。その仕事の困難さが分かります。

 この『鍍金』という技法、現在の『電気めっき』よりも金の厚みが出来、その風合いには深みがあります。でも現在なかなかその技法でめっきしてくれる業者はありません。

◆2004.3.11(木) 『奈良の大仏』
 奈良の大仏(盧舎那仏)は聖武天皇の発願で、国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)を造仏長官として、天平勝宝4年(752)に完成しました。その使用した銅の総量は500トンという途方も無い量が使われました。像表面には鍍金を施し、全身金色に輝いていました。さぞや壮麗であったと思います。

 実をいえば、現在、我々の見ている大仏は、江戸時代に作られたお顔です。元々の天平に作られて、残っている部分は本体右腋から腹部・両脚部の部分や袖の一部、台座の過半なのです。そして、全身の金色は失われたままです。
 東大寺大仏殿は、火事によって2回焼けています。まず、平安時代末期1180年の治承の兵火。平氏に反抗して僧兵が立て籠り、焼き討ちにあい、大仏殿は焼け落ちました。2度目は、1567年に三好・松永の兵火によって消失。その度に復興し現在に至っています。
 奈良の大仏の歴史は兵火と復興の歴史でもあるのです。奈良の大仏の前に立った折には、天平の創建当時の金色に輝く様子も想像してみて下さい。

◆2004.3.10(水) 更新情報仏像に使用されている接着剤
 『保存修復まめ知識』→『仏像に使用されている接着剤』で見れます。 

 仏像には様々な接着剤が、その時代時代で制作や修理に使われています。修復家はその接着剤に合わせて除去の方法を選択し、像を解体していきます。おかげで接着剤の事に大分詳しくなりました。ここではその代表的な例を挙げています。

◆2004.3.9(火) 『修復素材その1--漆木屎』
 
様々な良い合成樹脂が出回っている現在、仏像の修復においても色々導入されていますが、充填・塑型材料としては『漆木屎』がずっと使われ続けています。これは、日本だけの特殊な修復素材です。
 『漆木屎』とは漆に小麦粉を入れて練った麦漆という接着剤に木の屑を混ぜ込んだペースト状のものです。古くは奈良時代に乾漆像の材料としても使われていました。修復では、このペーストを虫穴に詰めたり、部材の隙間を埋めたり、欠失箇所の形を塑型したり、かなり多用します。漆工品の修復でも使われます。
 どうして合成樹脂にとって代わられなかったかといえば、
 ・天然素材なので人体に害がない。
 ・使いやすい。
 ・伝統的な素材なので、素材としての強さが長い歴史の中で実証済みである。
 ・風化の仕方がきれい。
 ・強過ぎず、弱過ぎず、当初部分の負担にならない。
 ・軽い素材なので当初部分の負担にならない。
などが理由に挙げられます。しかし、短所もあります。
 ・色が黒いので色を付けにくい。
 ・漆が素材なので溶剤に溶けず、可逆性が無い。
 ・漆にかぶれる人もいる。
というところでしょうか。これから先、かなり良い素材が出て来なければ、ずっとこの素材は使い続けられることでしょう。

◆2004.3.8(月) 『驚異的な東大寺南大門 仁王像の制作日数』
 奈良県、東大寺南大門の仁王像は、1180年の治承の兵火で平氏の焼き討ちにより、消失した伽藍の復興の際に造立されました。1203年に運慶と快慶が造ったと一昔前の小学校の歴史の教科書にも載っていた像です。この像は2体の像高8m40cm、6トンの巨像ですが、その制作日数が記録に残っていて、作り始めてから完成まで69日。これは、表面に漆を塗ったり彩色を施す日数を含んでいるという恐ろしい早さで造られています。そのような現場をちょっと想像出来ません。
 沢山の手だれが、いたことを想像させます。でないとこの日数ではとても無理です。そして、このプロジェクトを率いる運慶の統率力と慶派の結束力を感じます。

 その工程は、予め、像の寸法を縮尺したひな形を造っておきます。そのひな形に合わせて、部材を木取りしていきます。部材ごとに要らない部分を落としたところで一気に組み上げます。組み上がると像の大体の形は出来ており、細かい部分の彫出に入り、仕上げます、その後に表面の漆の仕事と彩色に移って行く訳です。
 どんなに急いでいても手は抜きません。吽形のへその位置や目玉の向きが気に入らなくて、大幅に変更した跡が残っています。こうして仁王像は完成しました。

 近年この仁王像は造られてから初めて修復され,その過程で沢山の事がわかってきました。従来まで運慶が吽形を、快慶が阿形をという分担で造立されたというのが定説になっていましたが、阿形像金剛杵の墨書には、運慶、快慶の名が。吽形像内の経巻には湛慶(運慶の子)、定覚の名が記されていました。これらの意味するところは現在でも諸説紛々としています。
 この修復での発見を綴った『仁王像大修復』という本が出ています。興味がおありの方はどうぞ一読を。

◆2004.3.7(土) 『恐るべき造仏の数』
 『中右記』には白河天皇(1053〜1129平安の中頃の天皇。院政を始めた人)が生きている間に作らせた仏像や寺院の数が記録されている。それによると、絵像5470余り、生丈仏5体(丈六仏の倍の大きさ)、丈六仏127体(立って4.8m、座って2.4m)、半丈六仏6体(丈六仏の半分)、等身3150体(人間と同じ大きさ)、三尺以下2930余り。
 貴族からもらったものも含まれているとは思うが、その数はものすごい。他の貴族達もこれには及ばないものの、自分達の氏寺に沢山の仏像を納めていたと推察され、その時代の仏像の生産量は計り知れない。この需要に応えるだけの工房と仏師が存在していたと考えられる。

◆2004.3.1(月) 『修復に関する本について』
 至文堂の日本の美術No.451.452.453で「文化財保護シリーズ」と銘打って、『漆工品の修理』『彫刻の保存と修復』『染織品の修理』が最近刊行されました。最新の修復技術と修復倫理について書かれています。修復に興味のある方は是非とも御覧下さい。一冊1650円でした。
 修復に関する事をこのホームページに書き込む時に、どの程度まで詳しく書くべきかという事を考えます。修復の面白さや、苦労を皆さんに知って頂く為には出来るだけ詳しく書くべきだと思うのですが、この事は諸刃の剣になりかねないという事実もあります。

 こんな話があります。ひと昔前、ドイツで修復の技法書が出版され一般の方にも読まれ、修復という仕事が広く理解されるきっかけになりました。しかし、その一方で素人修復家が多く出て、思慮に足りない安易な修復を行って、かえって『もの』を傷めてしまうという事が頻繁に起きました。結局現在、その本は、『文化財の損傷を招いた悪書』という評価を受けています。

 このホームページもそのような事実も踏まえながら、実際の修復工程も少しづつ出してしていけたらと考えています。


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